森の思考| vol.9境界のあわいに立つ
2025/05/29
ぼくたちは、いつも「どちらか」を選ぶように迫られている。
右か左か。 勝つか負けるか。 成功か失敗か。
でも実際のところ、世界はそんなにシンプルじゃない。
「どちらとも言えない」「そのあわいにいる」
という状態こそ、 ほんとうの日常に近いのではないかと、
最近よく思う。
「中動態」という考え方がある。
それは、「わたしがした」でも「わたしにされた」でもなく、
「わたしに起きている」というような、
自分が“主語”にも“目的語”にもなりきれない状態を扱う文法。
たとえば、「涙が流れた」「気づいたら立ち尽くしていた」
── そういった体験は、まさに中動態的だ。
國分功一郎さんは『中動態の世界』で、
この状態こそが、人間の営みの本質に近いのではないかと語っている。
また、量子論の世界でも、
粒子は「AかBか」ではなく、「AでもありBでもある」
という重ね合わせの状態で存在している。
観測によって初めて「A」と決まる。
つまり、「どちらかに決めなければ」という思考そのものが、
実はすでにある種の“バイアス”なのかもしれない。
こうした視点は、ビジネスにおいても大切だと思う。
「売れる or 売れない」
「成功する or 失敗する」
そうした二項対立の枠組みでは測れない
「プロセスの中間地点」にこそ、
実は大事な気づきや種がある。
講座や商品を企画するときにも、
「今この段階ではまだ収穫はないけど、たしかに耕している」
という時期がある。
焦って成果を出そうとするより、
その“あわい”にじっと立ち続けることが、
長い目で見るともっとも豊かな創造につながる気がしている。
非二元論では、そもそも「主体と客体を分けること」
そのものが幻想だとされる。
自分と他者、自分と世界の境界線はあいまいで、
わたしたちは互いに影響し合いながら存在している。
それを前提にすると、
「わたしがやった」
「わたしの成果」という発想さえ、
ほんとうはもっと混ざり合った、
関係性の中の出来事なのだと見えてくる。
ここで使っている「あわい」という言葉には、
「あいだ」とは少し違うニュアンスがある。
「あいだ」は比較的明確な境界線の“中間”を示すのに対して、
「あわい」はもっとゆるやかで曖昧な、 にじむような領域を指している。
自然と人工、内と外、過去と未来
── はっきりとは分けられない、その混ざり合う場。
そうした「あわい」に身を置くことは、
不確かさの中にとどまり、そこにある意味や兆しに耳を澄ますことでもある。
ぼくたちが立つ場所は、きっといつも「境界のあわい」だ。
「どっちでもない」
「まだ決まっていない」
「ゆらいでいる」
そんな状態を怖れずに、ただそこにいる。
それは、不確かさの中に身を置く力であり、
「答え」ではなく「問い」と共に生きる力でもある。
そしてなにより、
「どちらかに決めつけること」から自由になることで、
もっと深く、自分自身や世界とつながることができるのだと思う。
【今日の問い】
決めきれないことや、白黒つけられない想いに、どう向き合っていますか?
【参考・引用】
國分功一郎『中動態の世界』
ドロレス・ラ・シェル『ノンデュアリティ』
フリチョフ・カプラ『タオ自然学』
量子論における「重ね合わせ状態」および観測問題


